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7月11日 終戦60年 語り継ぐ (2) 「中国残留孤児~若者たちが聞いた60年目の叫び~」


終戦の混乱期を旧満州で迎え、肉親と生き別れたり、取り残された『中国残留孤児』。彼らの多くは、日本への帰国を果たしたものの、今もさまざまな問題を抱えています。その中国残留孤児を支援しようと、静岡の大学生が立ち上がりました。戦争を知らない若者が、戦争の傷跡を背負う人々と向き合い、初めて知った現実とはなんだったのかを取材しました。

 

1981年に肉親を探し、初来日した中国残留孤児。祖国の土を踏んだその姿は、私たちに衝撃を与え、孤児問題への関心は急激に高まりました。


あれから24年。今までにおよそ2500人が帰国を果たす中、この問題は日本の社会から忘れ去られつつありました。しかし…

国による戦後補償が受けられない現実。高齢、貧困、言葉の壁などの問題。戦後60年、夢見た祖国でも残留孤児は苦しみの中にいたのです。

 

5月のある日曜日、静岡市で餃子作りを教える中国残留孤児の姿がありました。餃子の会を企画したのは、静岡大学と県立大学の学生です。去年、残留孤児を支援しようと動き出した彼らは、今回初めて自分たちの手でこの交流会を開きました。

 

 

静岡県内の帰国者は推計74人。普段なら触れ合うことのない残留孤児に、若者たちが向き合うようになったきっかけは、大学で配られたチラシでした。

 

 

学生たちにボランティアを始めたきっかけを訊ねたところ、残留孤児のことは知らなかったので、もっと知りたいという答えが返ってきました。

 

 

餃子の会の後、残留孤児が重い口を開き、その思いを語りました。

 

 

60年前、敗戦の混乱極まる中国東北部。母親や兄弟と逃げ惑い、飢えや病気に遭い、置き去りにされた残留孤児の数は1万人近いと言われています。奇跡的に生き残り、日本にたどり着いた残留孤児。しかし今、彼らの多くは生活保護に頼り、日本語が十分に話せない中、孤独な日々を過ごしています。祖国での暮らしは夢にみていたものとは違っていました。

 

 

残留孤児を支援する 日中友好雄鷹会の鳥生 克哉さんによりますと、自分の生きた証や経験を、とにかく伝えたいのが中国残留孤児の方の気持ちなのでは、と語っていました。

 

 

翌日、学生たちは話し合いの場を持ちました。その中で、「餃子の会で、孤児の方々を身近に感じるようになって、その方たちが経験した、戦争の話が現実だと思えるようになった。」「年金のことなど、将来不安を抱えて生きるのが不平等」「私たちに何ができるか」などの意見が出て、今後どうしていくかという明確な答えが見つからないままでした。

 

 


もっと残留孤児に近付きたいという思いで、学生たちは富士市の残留孤児の方のお宅を訪ねました。

 

 


四條美代さん。4歳のとき吉林省で終戦を向かえました。13年前に中国人の夫とともに帰国。現在は生活保護を頼りに暮らしています。

 


四條さんは、小学生の時、喧嘩をすると、「日本人の子」と言われるのが悔しかった、と当時のことを語っていました。

 

 


居場所がなかった中国での日々。四條さんは、幸せな暮らしを送りたいと希望を持って、日本にやって来たにもかかわらず、生活保護を受けている現実から、一般の人と同じ暮らしをしたいとは思わない、と胸の内を語りました。

 

 


中国と日本、どちらにいた方が良かったのか、日本にいて良かったといっても、どこか幸せではないのでは、という学生の質問に、四條さんは、中国残留孤児としてこれまで生きてきて、人生がもう、取りかえしのつかないところまできていることに、しょうがないと、あきらめの気持ちを語りました。

 

 


今回の取り組みを通して、戦後60年経っても、戦争の犠牲を抱えて生きている人たちが今もいることが信じられないと、一人の学生が感想を語っていました。

 

 

戦後60年。日本の社会では忘れ去られつつあった中国残留孤児。目を伏せておけば触れ合うことのない戦争の傷跡に、学生たちは今、戸惑いながらも向き合いはじめました。

 

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